檜山正幸のキマイラ飼育記の科学はあなたを救ってくれないで紹介された道徳やしつけの根拠は自然科学にあるは、なかなか衝撃的ですね。トンデモに割となれているつもりですが、それにしても強烈です。
ちなみに、この文章そのものは、どこから切っても論旨が破綻しているので、議論の対象になりません。単なる水準だけで言えば、よくある「アインシュタインは間違っていた」と同程度でしかありません。基本的には、「基礎からちゃんと勉強をやり直して出直してきてね」という以上に言うことはありません。
強烈だと感じた理由は、それとは別の部分にあります。
実は、この文章はセカイ系と酷似した構造を持っていることに気付いたからです。
セカイ系ってなんだろう? §
WikiPediaのセカイ系から引用します。
セカイ系における世界とは、主人公とヒロインを中心とした主人公周辺しか存在しない。主人公とヒロインの人間関係・内面的葛藤等が社会を経ずに世界の命運を左右していく。場合によっては主人公とヒロインの関係が世界より上位にある。
ここでは以下のような特徴が見られます。
- 社会の存在感が希薄
- 極めて狭い範囲の個人による人間関係や心理的な側面が世界の運命を左右する。場合によっては、「私」の心理的なありようが、世界よりも上位に位置づけられる
比較してみよう §
これに対して、「道徳やしつけの根拠は自然科学にある」では、以下のような特徴が見られます。
- 個人の行動を制約する(道徳やしつけの)根拠として、自然科学が示される
- 自然科学的な正しさよりも、信じることの安心感が上位に位置づけられる
この特徴は、セカイ系の特徴にそのまま対応関係を示します。
まず、個人の行動を制約する根拠として、社会の様々な側面を飛ばして、いきなり自然科学まで飛んでいくというのは、社会の存在感が希薄であることを示します。
そして、『信じることの安心感』とは『「私」の心理的なありよう』の一種と見なせます。そして、『世界』と『自然科学』を同レベルの存在と見なすなら、『自然科学的な正しさよりも、信じることの安心感が上位に位置づけられる』という特徴は、『「私」の心理的なありようが、世界よりも上位に位置づけられる』という特徴とほぼ等価と見なすことができます。
これが、上記文章がセカイ系に酷似すると感じた理由です。
感想 §
うーん、別にセカイ系が好きであるとか、積極的に探しているということは無いのですが……。意図せずして向こうから勝手に目に入ってくるのはなぜでしょう?